2007/8/7 火曜日

『ジンクス』

小森陽一日記 18:31:58

羽田空港そばの京浜島、その日は台風5号の余波で強い風が吹いていた。だが、そんな風など物ともしないオレンジの一団は、30mのビルから降下し、重機で車を持ち上げ、無線が入ると高らかにサイレンを鳴らして出場して行った。彼等の腕には一様にセントバーナードの横顔が描かれたワッペンが貼り付けられている。可愛い顔のセントバーナードが実に誇らしげに見えた。第二消防方面本部消防救助機動部隊、通称ハイパーレスキュー隊である―――。

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以前マガジンでハイパーレスキュー隊の読み切りを書いた事がある(Works参照)。その時は立川に本部がある第八方面本部にお邪魔した。今回は二度目の取材となった訳だが、相変わらず圧倒されっ放しだった。訓練の激しさは言うに及ばず、ガレ場、ビル、船などが再現された訓練設備、十数種に及ぶ各種消防車を始めとする多種多様な資器材の量………。ハイパーレスキュー隊は体力、技能、知識すべてを兼ね備えて初めて一人前と言えるスーパーファイヤーマンなのだ!!

さて、昔からマスコミにはこんなジンクスがある。
「取材に入ると、途端に事件、事故がなくなる」
いい画を取りたい、真剣な顔が見たい、いつもにこやかに接してくれる隊員達の本当の一面が知りたい者にとって、このジンクスほど厄介なものはない。それがだ。この僕には通用しないのである。取材に入ると必ずと言っていいくらい事件、事故が発生する。昔、テレビのディレクターをしていた頃、警察官の取材をしていたら事件が発生して撮影が中断した。それが始まりだった。数年前、某テレビ局が一ヶ月トッキューに密着取材をした折、一度も海難は発生しなかった。なのにテレビクルーと入れ替わりに僕がトッキュー基地に行った途端、「海難通報、海難通報」のアナウンスが鳴り響いた。そしてこの現象は消防でも起こった。前回、第八方面本部に取材に入った時も、「○○出火報」のアナウンスで皆一斉に飛び出して行った。そして今回もまた同じ事が起こった。一度や二度ではない。すでにこの現象は二桁を越えた。本物を見たい、本物を知りたい、本物を感じたい者にとって、この現象は素晴らしく得難いものなのだ。しかし………である。
「小森さんが来ると何かが起こりますよね………」
「明日は小森さんが来るから覚悟しとけって言っといたんですよ」
「なんか憑いてるんじゃないんすかぁ?」
レスキュー隊の皆さん、もしかして僕の事、疫病神って思ってるんじゃ………。

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2007/7/31 火曜日

『ラジオ体操』

小森陽一日記 18:18:04

この一週間、毎朝7時に寝ぼけ眼でグラウンドに立っている………。

世間は夏休みに突入した。世のお母さんには苦悩の一ヶ月半の始まりだ。映画に遊びにと、我が娘も休みを満喫している。学校に行かなくていいと夜寝るのが遅くなるのは必然、ほっとくと生活のリズムはバラバラになる。ただでさえこの娘は夜更かしする癖がある。三年生のくせに普段でも10時に寝たら御の字で、10時半、11時になる事もざらにある。朝は7時過ぎに叩き起こされる訳だから、睡眠不足になるのは当たり前だ。おかげで時々頭痛を訴える。だからパパは決心した。終業式の日に持ち帰った山のような宿題や連絡プリントの中、一枚のカードを見つけた時に―――。
  
とはいえ、まがりなりにも僕は物書きだ………。マンガ家の原稿をチェックする為に夜遅くまで上がりを待っている事もあれば、編集者と打ち合わせをする時間もバラバラだ。もちろん飲みに誘われて出て行く事だってある。そうなると帰りは2時、3時、それでも無情の目覚ましは6時半に鳴り響く………。

ラジオ体操と言えば苦い想い出がある………。僕の実家、道路から玄関まで有に70mはある。冗談じゃなくそれくらいはある。でも、決して金持ちじゃない。ただ、買った土地が極端に細長い長方形だったという事だ。でもこれが地域の集まりには便利だった。子ども会の集合場所は必ず僕の家、廃品回収も盆踊りの練習もバーベキューもそうだった。知らない人が庭先をウロウロ、奇声や笑い声が響き、トイレは汚れ放題………、いい思いはしなかった。中でも極めつけはラジオ体操だ。毎年毎年あの爽やかな歌声がラジオから大音響で響き渡る。どんなに眠くても疲れていても叩き起こされた。自分の家の庭で体操をやるのだ、逃げ場なんてある筈がない………。

そして今、十数年振りにあの歌声を聞いている。
「新しい朝が来たぁ~ 希望の朝だぁ~」
だが、僕にも娘にも朝は来ていない。一応立ってはいるが、頭の中は完璧に夜である。まだ7月、果たしてこれが夏休み最後まで続くのやら………。結果は一ヵ月後にお知らせします。

2007/7/24 火曜日

『地鎮祭』

小森陽一日記 17:49:11

「地鎮祭」 
地を鎮める祭と書く。文字通り、工事を始める前に土地の神を祝って敷地を清め、工事中の安全と建物が、末永くその場所に建っていられることを願うお祭り。

―――という訳で、今回の話題は地鎮祭である。先日、地ならしされた我が家+仕事場が建つ事になっている土地の上に、テントが張られ椅子が並び、祭壇が作られた。祭壇には米や酒、塩のほか、大根や人参などの野菜と一緒にバナナやパイナップルなどが備えられている。随分食べごろなのか、パイナップルからは甘~い匂いがプンプン立ちこめ、小蝿が飛び回っていた………。祭壇を囲むように笹竹が置かれ、巡らせた注連縄から垂れた紙がヒラヒラと夏の風に揺れている。視線を下にやると、三角錐の形に砂の山が盛られ、真ん中には稲が立てられている。ニュースや映画でよく見る光景だ。4歳の時に実家でも地鎮祭をやったらしいが、僕は保育園に行っていたので立ち会うのは今回が初めてという事になる。

やがて神主さんの御祓いが始まり、立ったり、頭を下げたり、座ったりを何度か繰り返す。そうこうしている内に神主さんが僕に鎌を手渡して来た。現場監督に事前に教えられた通り、盛砂の所へ進み出て、「エイ!エイ!エイ!」と声を三度上げながら鎌を振り、最後に稲を抜いて地面に置いた。上手く行ったのかどうか不安なまま集まった人達をチラリと見る。みんな神妙な顔をして下を向いたままだ。ただ一人、ニヤニヤして僕を見ている娘の視線だけが気になった………。妻と娘が鍬を振り、現場監督が杭を打ち、最後に関係者一同が榊をお供えして滞りなく地鎮祭は終了した。

正直、自分が家を建てているという事自体、まだ違和感がある。というよりどこか現実ではない、御伽噺のような気がする。いつかこのブログにも書こうと思うが、僕の大学時代、そりゃぁもうドの付く貧乏生活だった。バイト代も仕送りも、すべて自主映画の制作費に継ぎ込んで、挙句、栄養失調で病院に担ぎ込まれたほどである。そんな奴が家持ちになるなんて………、何かの冗談ようにしか思えない。そんな事を思い巡らせていると、神主さんがお神酒を持って近づいて来た。お酒は好きな性質なので、遠慮なく飲み干す。すると今度は別のお神酒が出てきた。呑み比べてみて下さいと言われ、再び飲み干す。
「どうです?味が全然違うでしょう」
言われてみれば、片方はまろやかだったような気がする。
「神棚に置いておくと、こんな風に味が変るんですよ」
味が変る―――、そのフレーズで、昔流行ったピラミッドパワーを思い出した。三角形の中にブラックコーヒーを入れると、神秘の力で甘くまろやかなコーヒーになるのだ。オカルト好きの友達に何度もコーヒーを飲まされた。
「な、味が変っただろ、甘くなっただろ」
言われてみればそんな気もする。言われてみないとそんな事はないような気もする。   
現実と御伽噺は常に背中合わせ………、でもまぁいいか、信じる者は救われる。数ヶ月後にはここにドーンと家が建つと信じよう。

2007/7/17 火曜日

『洋上の鋼城』

小森陽一日記 17:55:06

白く霞んだ新潟県岩船沖の洋上に、突如デッカイ建造物が現れる。岩船沖油ガス田の洋上プラットフォーム、これが今回の取材のターゲットだ――――。  

今年はやけに新潟に縁がある。1月、まだ寒風吹きすさぶ中、「トッキュー!!」の取材で訪れたのを皮切りに、先月は着衣泳研究会に招かれ長岡技術大学で講演をやった。そして今回が三度目、「海師」の取材である。漫画家の武村くん、担当のKくん、そして日本海洋石油資源開発のIさんと一緒に新潟空港からヘリに搭乗、海上を移動する事約10分で洋上プラットフォームが見えて来る。まるで鋼の城を思わせるプラットフォームに旋回しながらゆっくりと接近するヘリの中で、「機動警察パトレーバー」の映画版、「箱舟」と形容されていた巨大な構造物を思い起こしていた………。
 
ワクワクしながら城の中へ入る。だが、居住区は驚くほど当たり前の光景が広がっていた。作業員の部屋、風呂、トイレ、食堂に娯楽室、一通り見て回ったが、これまでに何度も見てきた船内の風景とまったく変らない。プラットフォームならではの特別な仕様などどこにも見当たらない。肩透かしを食ったような気持ちで階段を下りる。すると、目の前の光景は一変した。天井と床の区別がつかないほど剥き出しの鉄骨と配管が至る所を這い回り、ゴウゴウと凄まじい音を立てて可動している。そして目の前には海底に一直前に伸びるパイプの群………。
「このパイプで海底深くから油と天然ガスを吸い上げています」
「これが………」
解説するIさんの隣で僕はその光景を見つめる。さすがは日本最大と言うべき壮観なものだった――――。
もう一つ、ここが洋上プラットフォームだという事を思い知らされたのは、外階段を移動した時だ。文字通り四方八方が海、自分の立っている足元、鉄骨の隙間から海の青が透けて見える。軽く30~40mはあるから高所恐怖症だと足が竦むだろう。僕もあまり高い所は得意じゃない方なので、すこぶる景色のいい外階段を移動する時は、皆に悟られないようにへっぴり腰を隠していたほどだ。それを見透かされたのか、Iさんは言う。
「今日はべた凪ですけど冬の日本海は荒れますからね、その時はこのプラットフォームがグラグラ揺れるんです。海の上だから逃げ場はないし、中々凄いですよ」
どうやら本気でここがどういう所かを体感する為には、冬の荒海の日に来ないとダメなようだ。(もちろん遠慮します………)
   
今回の取材が今後どのようなカタチで「海師」に登場してくるか、皆さんどうかご期待下さい――――。

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新潟訪問から一週間後、まさかこんな大地震が起ころうとは………。
出会った人々の笑顔が、まだ鮮やかに思い出されます。
被災された皆様の一日も早い復興を心よりお祈りいたします。

2007/7/10 火曜日

『大雨の想い出』

小森陽一日記 20:14:52

今年は空梅雨だなんてささやかれていたと思ったら、一転、7月に入って九州は大雨に見舞われている。昨日もドウドウと滝のような雨が薄暗い空から落ちて来た。
そんな大雨を見ていると、無性に外へ飛び出したくなる。傘もささずに裸足で走り回りたくなる………。

赤ん坊の頃、洪水があった。街の中心を流れる川が氾濫し、市内はことごとく床上浸水したそうだ。もちろんその記憶は僕にはない。お袋に抱きかかえられて、2階の窓辺から外を眺めている一枚の写真が、それが事実であった事を伝えている。
保育園の時も大雨が降った。川は氾濫寸前までいくほどの雨だった。黄色い長靴と揃いの雨合羽を着て、迎えに来てくれた親父と車まで歩いた。車は坂を上りきった所にハザードを出して停めてあった。坂の下では水に浸かってしまう恐れがあったからだと思う。坂道を登る途中、上からどんどん水が流れ落ちて来た。まるでプールのウォータースライダーみたいだった。僕の長靴の中はすぐに水でいっぱいになった。歩く度に長靴から水が押し出されて噴水のように跳ね上がる。それがとても面白くて、車に乗るのをぐずった記憶がある。それ以後、僕の中で大雨は面白い出来事になった―――。
小学生になっても中学生になっても、きまって大雨の日には傘をささなかった。なぜだが異様にテンションが上がり、仲間達とパンツまでズブ濡れになりながら鬼ごっこやドッジボールをやった。高校の帰り道、大雨の中を奇声を上げて自転車で走り回った事もある。周りからみればさぞかしイカレタ奴に見えた事だろう………。
そして忘れもしない平成11年6月29日、「海猿」の取材で海保大を初めて訪れた帰り、僕は博多駅で信じられない光景を目の当たりにした。駅は停電で真っ暗、外は見渡す限り水に浸かっている。そこら中に車が乗り捨ててあり、人は腰辺りまで水に浸かって右往左往している。松田優作風に言えば「なんじゃぃこりゃぁ!!!」
である。一瞬でハートに火がついた。押さえが効かなくなって、走り出すように道路に飛び出した。降りしきる雨の中、冠水した四車線の道路の真ん中をザブザブと歩く。そこから見る街は僕が知っている街とはまったく違って見えた。

日常が大雨という出来事で非日常に変る。見た事もない景色に一変する。危険だとか怖いとか大変だとかの前に、そのあまりの劇的さに心を奪われてしまう。被害に遭われた方には申し訳ないけれど、この感覚だけは押さえようがない。ゴジラやウルトラマンが好きなのも、多分この辺りからきてるんだろうな………。
ある時、トッキューにこの話をした事がある。するとこう即答された。
「そういう人ってだいたい真っ先に死ぬんですよね」
「………」
そうらしいです。僕のようなタイプの人はどうかお気をつけ下さい。

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