『新潟へ飛ぶ』
福岡から新潟へは一日一便のみ。その日の原稿をギリギリで片付け、僕は新潟行きの飛行機に飛び乗った。目的はもちろん「252」の舞台挨拶、新潟の皆さんに自分の想いを伝える為だ―――。
2004年10月23日、新潟中越沖地震発生。道路が崩れ、家が倒壊し、山が崩落したあの地震………、そんな中、幼い少年が瓦礫の中から救出された映像が全国に中継された。助け出したのは東京消防庁の消防救助機動部隊、通称ハイパーレスキュー隊。僕は彼等に取材を試みた。そして「252」という数字をノートの端に書き留めた。やがてその走り書きが大きな意味を持つ事も知らずに………。
「252 生存者あり」、舞台は東京だが、この作品の出発点は新潟にある。だが、この物語の原型を最初に書いた時、あの地震の取材の事はまったく意識がなかった。
ただ伊藤英明に渡すお土産として、彼をイメージし、そして新たな魅力を引き出す為に父親としての主人公を書いた。ほんとうに軽い気持ちで渡したにすぎない。しかし彼はその短い物語の中に明確な、そして強いメッセージを読み取っていた。252、すなわちそこに生存者がいるという事。おそらく誰よりも早く、書いた本人の僕よりも確かに、この物語の本質を読み取ったのは彼だと思う。やはり彼も、瓦礫の中から救出されたあの映像を見ていた―――。
突然の大災害、家族、恋人、友人、様々なものが一瞬のうちに引き裂かれてしまう。
それはどれほどの痛みが伴うものなか、想像すら出来ない。幾ら話を聞いてもその痛みはわからない。だけど懸命に考えた。想像した。思いを馳せた。そして、苦しみの中で求め合う、信じあう、夫婦、親子、兄弟………、様々な人々の絆を書いた。映画が完成し、新潟でもキャンペーンが行われると分かった時、僕は「行きたい」と思った。佐藤、下田両Pに「新潟には是非行きたい」と伝えた。両Pは「わかりました」と頷いてくれた。
「新潟の皆さん、あの地震で、そして洪水で、本当に苦労された事と思います。いや、今もまだ苦しみ続けている人が沢山いらっしゃると思います。この「252」が少しでもそんな方々の力になれれば、生きる希望になれれば、僕は嬉しいです」
これを自分の口からどうしても伝えたかった。
もちろん新潟だけではない。阪神淡路大震災で被災された多くの方、福岡西方沖地震で被災された方、洪水、竜巻、様々な自然災害に巻き込まれた方々にとって、この作品がエールとなれば、力となれば、こんなに嬉しい事はない。最後に立ち向かえるのは人の絆――――、僕はそう信じている。